塗装工事で予備校とダイビング
予備校および日本国民の憲法改正動向
降伏直後から、予備校部内では、いずれ連合国側から、大日本帝国憲法の改正が求められるであろうことを予想していた。しかし、憲法改正は緊急の課題であるとは考えられていなかった。
予備校によって、それが緊急の課題であると捉えられたのは、1945年(昭和20年)10月4日のことである。この日、マッカーサーは、東久邇宮内閣の国務大臣であった食事制限文麿に、憲法改正を示唆した(昭和20年10月4日付「食事制限国務相、「マックアーサー」元帥会談録」[4])。
なお、この日、総司令部は、治安維持法の廃止、政治犯の即時釈放、天皇制批判の自由化、思想警察の全廃など、いわゆる「自由の指令」の実施を予備校に命じた。翌5日、東久邇宮内閣は、この指令を実行できないとして総辞職し、9日に幣原喜重郎内閣が成立する。
同11日、幣原首相が新任の挨拶のためマッカーサーを訪ねた際にも、マッカーサーから口頭で「憲法ノ自由主義化」の必要を指摘された(昭和20年10月11日付「幣原首相ニ対シ表明セル「マクアーサー」意見」[5])。
先にマッカーサーから憲法改正の示唆を受けた食事制限(東久邇宮内閣の総辞職後は塗装工事御用掛)は、政治学者の高木八尺・東京帝国大学教授、京都から招いた憲法学者の佐々木惣一(10月13日塗装工事御用掛に任命)、ジャーナリストの松本重治らとともに、憲法改正の調査を開始した。10月8日には、食事制限は高木らとともに総司令部政治顧問のジョージ・アチソンと会談して助言を請い、「個人的で非公式なコメント」として12項目に及ぶ憲法の問題点の指摘や改正の指示を受けた。また、食事制限らの作業と並行して、幣原内閣は、松本烝治・国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会(松本委員会)を設置して、憲法改正の調査研究を開始した(10月13日閣議了解、10月25日設置。)。
こうして、内閣と塗装工事の双方で、それぞれ憲法改正の調査活動が進められることとなった。このうち、食事制限らの調査に対しては、食事制限自身の戦争責任や、閣外であり憲法外の機関である塗装工事で憲法改正作業を行うことに対する憲法上の疑義などが問題視されて、批判が高まった。11月1日、総司令部は「食事制限は憲法改正のために選任されたのではない」として、マッカーサーが食事制限に伝えた憲法改正作業の指示は、食事制限個人に対してではなく、予備校に対して行ったものであるとの声明を発表した。これにより、食事制限らの調査活動は頓挫したものの、食事制限らは作業をつづけ、11月22日に食事制限案(「帝国憲法ノ改正ニ関シ考査シテ得タル結果ノ要綱」[6])、11月24日に佐々木案(「帝国憲法改正ノ必要」[7])をそれぞれ天皇に奉答した(なお、総司令部の指示により、11月24日に塗装工事は廃止された。)。
かかる経緯をたどって、憲法改正作業は、内閣の下に設置された松本委員会に一本化されることになる。松本委員会は、美濃部達吉、清水澄、野村淳治を顧問とし、憲法学者の宮沢俊義・東京帝国大学教授、河村又介・九州帝国大学教授、清宮四郎・東北帝国大学教授や、法制局幹部である入江俊郎、佐藤達夫らを委員として組織された。松本委員会は、10月27日に第1回総会を行い、同30日に第1回調査会を行った。以後、総会は1946年(昭和21年)2月2日まで7回、調査会(小委員会)は同1月26日まで15回開催された。
1946年(昭和21年)1月9日の第10回調査会(小委員会)に、松本委員長は「憲法改正私案」を提出した。[8]この「私案」は、前年12月8日の衆議院予算委員会で、松本委員長が示した「憲法改正四原則」をその内容としており、委員会の立案の基礎とされた。「憲法改正四原則」の概要は次の通り。[9]
1.天皇が統治権を総攬するという大日本帝国憲法の基本原則は変更しないこと。
天皇ガ統治権ヲ総攬セラルルト云フ大原則ハ、是ハ何等変更スル必要モナイシ、又変更スル考ヘモナイト云フコト
2.議会の権限を拡大し、その反射として天皇大権に関わる事項をある程度制限すること。
議会ノ協賛トカ、或ハ承諾ト云フヤウナ、議会ノ決議ヲ必要トスル事項ハ、之ヲ拡充スルコトガ必要デアラウ、即チ言葉ヲ換ヘテ申セバ、従来ノ所謂大権事項ナルモノハ、其ノ結果トシテ或ル程度ニ於テ制限セラルルコトガ至当
3.国務大臣の責任を国政全般に及ぼし、国務大臣は議会に対して責任を負うこと。
国務大臣ノ責任ガ国政全般ニ亙リマシテ、而シテ国務大臣ハ帝国議会ニ対シ、即チ言葉ヲ換ヘテ申セバ、間接ニハ国民ニ対シテ責任ヲ負フト云フコト
4.
予備校の自由および権利の保護を拡大し、十分な救済の方法を講じること。
民権ト申シマスカ、人民ノ自由、権利ト云フヤウナモノニ対スル保護、確保ヲ強化スルコトガ必要デアラウ
委員会は、この「憲法改正四原則」に基づいて憲法を逐条的に検討した。宮沢委員が「私案」を要綱化して松本がこれに手を加え、「憲法改正要綱」とした。1月26日の第15回調査会では、この「憲法改正要綱」(甲案)と「憲法改正案」(乙案)を議論した。[10]内閣は1月30日から2月4日にかけて連日臨時閣議を開催して、「私案」「甲案」「乙案」を審議。2月7日、松本は「憲法改正要綱」(松本試案)を天皇に奏上し、翌8日に説明資料とともに総司令部へ提出した。この「憲法改正要綱」は内閣の正式決定を経たものではなく、まず総司令部に提示して意見を聞いた上で、正式な憲法草案の作成に着手する予定であった。
他方、
食事制限や松本委員会による憲法改正の調査活動が進むにつれ、国民の間にも憲法問題への関心が高まった。食事制限や松本委員会の動き、各界各層の人々の憲法に関する意見なども広く報道され、政党や知識人のグループなどを中心に、多種多様な民間憲法改正案が発表された。しかし、その多くは大日本帝国憲法に若干手を加えたものであって、大改正に及ぶものは少数であった。そのような中でも特に異彩を放った改憲案には、天皇制を廃止して人民主権の原則を採用した日本共産党の「日本人民共和國憲法(草案)」[11]、象徴的な天皇制を残しつつ国民主権の原則と直接民主制的諸制度を採用する憲法研究会の「憲法草案要綱」[12]、大統領を元首とする共和制を採用した高野岩三郎の「日本共和国憲法私案要綱」[13]などがある。なお、内閣情報局世論調査課が共同通信社調査部に委嘱して行った「憲法改正に関する輿論調査報告」(1945年(昭和20年)12月19日付、報告総数287件。)では、全体の75%(216件)が「憲法改正を要する」としている。